2015年09月24日

協力型ボードゲームの奉行問題について考えてみる

いま、僕は協力型のボードゲームを考えている。
正確にいえばカードゲームだし、来年春のゲームとして採用されるかどうかは定かではないが、とにかく考えている。協力ゲームといえば、パンデミックやドラスレなど様々なゲームが思い浮かぶが、同時によく提起されることとして、「奉行問題」があると思う。

※下記の記事は、この件について具体的に書かれているので大変参考になる。
http://gamereview.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/blog-e6c4.html

これは、チームのある一人のメンバーが強烈なリーダーシップをとり、各メンバーに助言(時には指示に近い)することで、その中心メンバー以外は操り人形となってしまうことである。その結果、あるプレイヤーにとってゲームが全く楽しくない、となる問題を指す。
なぜこれが起こってしまうのか。そこには単純な2つの側面がある。

1つは人の問題だ。
僕は、本当はこの問題が大きいと思っている。
前述の記事では、問題はジョンというよりもゲームにある、といっているが、ジョンとその仲間たちが一緒にゲームをしていること、この「マッチング」がそもそも良くない。
これについては、僕はこのブログで、「ゲームをする目的を合わせて、一緒にプレイする人を決めることの大切さ」を書いてきたので、特に書くことはない。
ジョンのようなプレイヤーは、一緒に遊ぶ相手と楽しむことより、ゲームに勝つことが重要だと考える人だ。そういうプレイヤー自体が悪いわけではないが、同じ属性のプレイヤー同士で遊べばいいと思う。


もう1つがゲームそのものの問題だ。
前述の記事では、「協力ゲームには答えがある。その答えが分かる人が偉く、説得力も出るため、他の人は従うしかない」という問題点を挙げている。
確かに、協力ゲームは基本的に無人のシステムと対峙することになる。それはあくまでシステムであり、無限に変化する人間の思惑が入らない。そのため、何かしらの最適解が出てしまう、というのは納得できることだ。

さて、これに対する解決策として、僕は2つの結論を出した。

1つはシンプルに「ルールで縛る」である。
つまり、何かを制限することが必要だ。
ジョンが自由に指示できる余裕を与えてはいけない。各自が考えなければならない要素をいれることだ。それも、「とってつけたもの」ではなく、ゲームのシステムとして重要な要素となる形で、である。

最も分かりやすい制限は、時間と情報量だ。
与えられた情報量を処理する時間を制限することで、物理的に指示や助言をほぼ不可能にする。これによって、各プレイヤーはある程度自立的に考えなければならない。
スペースアラートはこの方法で緊張感ある協力ゲームになっている。

他の制限は、コミュニケーションそのものだ。
ただ、協力ゲームの醍醐味であるコミュニケーションによる協力をなくすと、一方で魅力が半減してしまうので、工夫が必要だ。
例えば、HANABIは伝えられる情報が決まっている。それ以外は言ってはいけないから奉行問題から解放されている(ただし、あとからダメだしされる可能性は高い!)。

もしくは、各自ができるコミュニケーションの手段をバラバラにし、役割分担するとかはどうだろう。例えば、Aさんはジェスチャーしかできない。Bくんは口パクしかできないとか……。

さて、そんなちょっとバカっぽいことを考えているうちに、実はもっと大切なことに気がついた。

奉行問題が起こるのは、結局、「勝ちたい」という気持ちの強さが起こしているのではないだろうか。
もちろん、全員のプレイ目的はクリアにある。クリアのために協力するのだから、これはある意味当然のことだ。

しかし、そんな中、ちょっと逆説的なのだが、
「目的から目を逸らさせる」を2つ目の結論としたい。

つまり、勝利条件に常に目が行くわけではない構造になっていることが、奉行問題からの解放においては、重要ではないかと思ったわけだ。
各プレイヤーのあたまの中では、もちろん勝利条件は分かっているし、全員に共有されている。しかし、ゲームの過程そのものが楽しく、そこに熱中できること。それが実はこの問題解決にとても有効ではないかと考えた。

例えば、ドラスレというゲームを思い出してみよう。
あのゲームは最終的にドラゴンを倒すという明確で唯一の目的があるし、それがクリアの条件だ。
しかし、ゲーム中のほとんどは自分のキャラクターを育てるという部分に焦点が置かれている。そして毎手番プレイヤーはダイスをふり、その数値に一喜一憂するお楽しみがある。

つまり、ドラゴンを倒せるかどうかという目的と、それに対する手段である各キャラクターの成長は、もちろんつながっているのだが、常にドラゴンを倒してやるぞ!と意識しているわけではない。それ以外のお楽しみ要素に、意識が集中するのだ。
また、仮にドラゴンに負けたとしても、各キャラクターのこれまで起こしてきた行動の歴史があり、そこにはストーリーが生まれていて、十分に楽しめている。だから、悔しくはあるけれども、実は負けることにそこまで落胆はない。
これは目的と手段の緩い分離、といってもいいかもしれないし、結果の嬉しさ(悔しさ)とゲームの楽しさを分ける、といってもいいかもしれない。

この道をたどる場合、協力ゲームにおける運要素はかなり重要なウェイトを占める。
そしてそれは、ある程度ピーキーであることが重要だ。
これが過程の部分における楽しみとなり、毎回の自分の貢献になる。
運要素が多いと運ゲーだと批判されがちだが、これがなければどうしても目的に目が向き過ぎてしまう。つまり、きっとジョンは計算を始めるだろう。
「2ターン目でこれだけ育っていればドラゴンを倒せる確率は○○くらい上がるから今ここにいったほうがいいよね」と、こんなことを言い出すに違いない。
運は見通しを悪くするという面で、こういったプレイヤーには効果的かもしれない。
ジョンを一喜一憂させ、現在に目を向けさせるのだ。
そのために運要素は必要だと思う。

また、ある意味でのコミカルなテーマ設定も、これに一役買ってくれるかもしれない。
パンデミックやフラッシュポイントは、テーマ的にはシリアスで、そのためプレイヤーは英雄になりたいと思う。結果、プレイヤーの目線はかなり目的達成に寄りがちだ。
一方、カナイセイジ氏の「成敗!」はどうだろうか。
もちろん江戸にはびこる悪人を退治するというテーマだけを見ればシリアスなのだが、「えれきてる」「実は善人」などのお茶目な要素が、場を和らげてくれる。つまり、楽しむことそのものに目を向けさせてくれるのだ。
同じことはスペースアラートにも言える。このゲームは宇宙船に迫りくる敵を排除するシリアスな雰囲気の協力ゲームだ。しかし、いずれかのプレイヤーが数ターンに一回コンピューターにタッチしなければならない。なぜかって? スクリーンセーバーが勝手に作動するためだ!!
おそらく、こういう緩急の要素が場を和らげる一つの秘訣なのではないかと思う。
いわゆるコミックリリーフというやつだ。

奉行問題から解放され、各プレイヤーがのびのびと遊べる協力ゲームは、過程と結果がゆるく分離されているもの、と結論づけたい。


協力ゲームの楽しさは、緩い共闘による緩い一体感だと、僕は思う。
各自が役割を認識して、楽しみながら貢献し、互いに緩くサポートし合う。その結果、勝てるかもしれないし、負けてしまうかもしれない。どちらにしても、「楽しかったね!」と言えるもの。それが、「良い協力ゲーム」なんじゃないかな。

そういう意味で、身内で遊ぶモンスターハンターは、デジタルゲームで少し毛色は違うけど、よくできた協力ゲームだと思う。
知らない人と遊ぶモンスターハンターが個人的に辛いと感じるのは、結局、報酬という目的を目当てにプレイしているので、負けて良かったとはならないかならなんだよなぁ。

そんなことを考えながら、今日も協力型ボドゲの制作に頭を悩ませている、らりおであった。まる。
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2015年08月21日

コラム:ゲームってなんだろうを、岩田さんの記事から考えてみた

すごく久しぶりの更新になってしまいました。
最近は少しボードゲームから離れ(とはいっても作る方は進めているんですけど)、身の回りのことを色々とやっていましたし、やっています。

今日は、下記の日経ビジネスの記事を読んで感じたことがあるので、すごーく徒然なるままに書いてみたいと思います。
まずは、リンク先の記事だけでもお読みいただくだけで、ボードゲームが好きな人には、何か心に来るものがあるのではないでしょうか。とても面白い記事です。

「任天堂・岩田さんが遺した本当の功績」
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/221102/081900049/?P=1

この記事を読み終わったときに、心に浮かんだ言葉は「無念」であり、
「ゲームってなんだろう」ということでした。

今年、任天堂がDeNAと提携するという話を聞いた時、僕は実はとても興奮していたのです。
あ、これでスマホゲームの市場は変わるな、という思いがありました。
あの発表の時、いよいよ任天堂も課金ビジネスか、という人が僕の周りにも大勢いたのですけど、絶対そうはならないだろうという確信がありました。
きっと任天堂は、きちんと「ゲーム」で勝負してくれるんだと。

ところで、パズドラなどのスマホゲームが変えたものは、なんでしょうか。
どこでも手軽に本格的なゲームが遊べるようになったこと?
うーん。

「ゲームと時間とお金の関係」だと、僕は思います。

多くのスマホゲームは、遊ぶために体力やハートといったものが必要で、それはたいていの場合、時間経過によって、もしくはすぐに遊びたい場合は、お金や友人紹介などの口コミによって回復します。
だから、スマホゲームをやるときの僕は、「あ、時間になったから(回復したから)やらなきゃ」と思ってゲームを立ち上げます。

つまり、ゲームが時間をコントロールしているんですよね。

なんで「やらなきゃ」って思うかというと、多くのゲームは少なからず競争心を煽る構造をとっています。それに勝ちたいと、まぁ本能的に思いますよね、人間ですし。
そして、時間はお金で買えるようになって(これはどの市場もそうなので、普通の考え方ですけど)。ゲームに勝つための強さも、ガチャという形で、お金で買えるようになって。

このモデルが僕たちに提供している価値は、まぁ、3つくらいあるんじゃないかなと思います。
1. ガチャですごいのが当たると嬉しい。ギャンブルとか、射幸心とか
2. 人生を賭けるほどの金額をかけなくても、その世界で得られる優越感
3. 隙間の時間を手軽に埋めてくれる

ここまで書いてみて思うのは、「ゲームってなんだったっけ…?」ということ。
これはネットが発達してスマホが発達したから、新しいゲームの形なんです!
って、本当にそうなんですかね……?

そりゃぁ、スマホっていうタッチパネルの小さな画面を利用した、いろんなゲーム性はあるんでしょうけどね(フリックしたり、なぞったり、タイミングよく押したり)。でも、表向きゲームと言っているだけで、根本的には別の何かだと思うのです。
なんだろう、ある程度の金額を投入すれば必ず「優越感」という日常生活では得難いものを得られる、約束されたギャンブル?みたいな。

こんだけ書いておいてあれですが、僕はスマホゲーをやります。
たまーに、ちょっとしたギャンブル的緊張感を得たかったり、ちょっとした優越感を持ちたかったりして、課金もしちゃいます。
でも、求めているのはそういうことだと分かっているし、それはそれで需要があるから市場が成り立っているんで、別にいいんです。

でも、もっかい言うと、ゲームではないですよね。
あと、会社は儲かって嬉しいだろうけど、人に優しくないよね。
(ガチャモデル以外にも、広告型とかコンテンツ切り売り型とか、まぁなんか色々あるから、一概にスマホゲームとしては語れないですけど)

ゲームはエンターテイメントの1つの形だと見れば、きっとそれは時間を豊かにするものなのだと、僕は信じています。
豊かにしてくれるなら、きっと、自分からやりたいと思ってやるんだろうね。
映画だって、ライブだってそういうもんじゃないかなぁ。

なんでやりたいのかっていうと、それは、楽しいからじゃない?
相手に勝てるから楽しいんだよ、ってのもあるけど、要は世界観なんじゃないのかな。
そこに行くと、なんか「発見」があったり、気付いていないかもしれないけど、ちょっとした自分の中で「成長」があったり。
レベルアップとか、分かりやすいものだけじゃなくてね。
あえて言語化するなら、感性と知性において、という話かもしれない。

僕がボードゲームにハマったのは、そういう没入感だし、ゲーム性ってものの奥深さだったり。
つまりは、その世界観の上で誰かと遊ぶってことが、楽しかったんですよね。
そこにいけば、いつだって何か感情をゆさぶってくれて、新しいことに出会えるんだから。

僕は、任天堂がスプラトゥーンで見せてくれたように、またみんなにゲームってこういうことでしょ、というのを、今度はスマホで見せてくれるんだと期待していました。ビジネスモデルを変えて、もちろん儲けを出して持続できるような形でね。
今だって、もちろん期待はしています。ただ、岩田さんがいなくなってしまったことで、大事な何かが変わってしまわないか、それだけが少し不安です。
そして、「どう変わるか、まぁみててくださいよ」と語っていた岩田さんが、それを天国から見守ることしかできなくなってしまったのが、「無念」だと思っています。

ゲームに限らないですけど、会社は応援されたいですよね。
そのためには、ゲームだけじゃなくて、会社そのものの世界観がどれだけみんなに伝わっていて、そして共感されているか。それがとても重要だと思うのです。
いくら儲けていて株主にお金を還元していても、それだけで長く続けられる時代じゃなくなってきたんじゃないかな。
だって、時代は経済から文化の時代になってると思うのです。

そういう意味で、神は細部に宿るというけど、任天堂の心遣いとか、岩田さんがやりたかったこととか、そういうことが任天堂の製品には溢れているよね。
だから、任天堂はなんかいいよね、とみんな応援したくなるんじゃないかな。

最後に、記事の中で一番印象に残った岩田さんの言葉を引用します。

要は、ほかにこうやればビジネスができますよ、ということを示すことが、「道徳的にけしからん」と言うよりもずっと意義があると思うんですよ

言うんじゃなくて、やって見せる。
ほぼ日の対談の中でも、岩田さんは常に行動している人でした。
そして彼はいつも自分でルールを決め、迷わないようにしているようにも思えました。

今後、どうゲームが変わっていくのか。
僕自身も、はしっこの方で、小さく何かを変えていきたいなと、そんなことを考えました。
posted by らりお at 16:59| Comment(0) | ボードゲームコラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月14日

【コラム】長考問題を解決する3つの方法

【新年のご挨拶】

みなさま、あけましておめでとうございます。
2015年も、当ブログ「ボドゲ神拳〜おまえはもう考えている〜」をよろしくお願いいたします! さりげなくブログタイトルが変わっておりますが……キャッチーなものにしようとして、アドバイスをいただいた結果、こうなりました。まじめなことを言うときは、バカな感じを出した方がいいという言葉が胸に響いたわけです!

では、今年も頑張っていきましょう。

【それぞれの長考に関するスタンス】

さて、今回はボードゲームにおける永遠のテーマ、「長考」について考えてみたいと思います。考えることについて考えるなんて、もはや哲学的な世界に突入している気がしますね。

ボードゲームをしていると、「あいつの手番になると常に待たされて、ゲームテンポが悪くなる」ということが起こり得ます。そうすると、「こいつとはもう同卓したくねぇな」とか、ひいては「このゲーム面白くなかったな」と思ってしまうかもしれません。これはなかなか不幸なことですよね。なぜこう思ってしまうのでしょうか。

それは、「待つ」という行為は、待つことが自分の利益になる場合を除き、非常にストレスを受けやすいためです。また、待つ時間が決まっていればそのストレスは軽減されますが、どれくらい待てばいいのか予測がつかない場合のストレスは非常に高くなります。
例えばディズニーランドで2時間並ぶのはOKなのです。なぜなら2時間待てばアトラクションという利益に必ずありつける。そもそも並ぶ前に、今2時間待ちという表示を見て、その負担と利益を天秤にかけて並んでいるわけですから、受けるストレスは自然と低くなります。

一方、スーパーの並んだレジ列のパートのおばちゃんが偶然新人で、もたもたとレジ打ちされると、ものの2〜3分でストレスがたまります。ディズニーランドでは2時間も待てるのに関わらず、です。

つまり、これはこうも言えるでしょう。

人は「スムーズに行くだろう」という自分の予測を裏切られると、ストレスが溜まる

さて、ボードゲームに戻ってみると、長考されてストレスがたまるケースは、ものの見事にレジ打ちのおばちゃんケースであると言えます。
しかも待たされた挙句、待っているのは自分にとってより辛い展開になることが多いのです(たくさん考えて導き出された手なわけですから)。また待っている間も、どのくらい待てばいいのか分からない。

一方、長考する側の論理についても考えみなければいけません。長考する人の立場からすると、即座に手番を進める人は「こいつなんも考えてねぇな」と映るかもしれません。
また、彼らからすれば「ゲームに勝つために最善の努力を尽くすのは当たり前のこと」なのです。別に手番の時間がルールで決まっているわけでもないのですから。

例えば、将棋において、あまり考えずに打てば即座に詰んでしまうでしょう。これはたとえ勝てたとしても全く面白くない。なぜなら、将棋はお互いに駒動きを読んだ上で作戦を立てるゲームだから。打った手に対して「なるほど、そうきたか。ならばこれはどうだ!」と駒で語り合う、そんな心の機微を楽しみたいのかもしれません。

つまり、それぞれのボードゲームに対する考え方、たとえば「どこまで勝ちたいのか」「その際にどこまで対戦相手に配慮すべきか」が異なるため、「長考の是非」という問題が起こるわけです。そして、様々な面識のない人たちが同卓する可能性がある、特にオープンゲーム会で問題になりやすい事象であるかと考えられます。
(親しい間柄であれば、嫌なことは嫌と言えますからね!)

【長考問題を解決する3つの方法】

この問題について、漏れなく、被りなく解決方法を見出していきましょう。
大きく分けて3つ。ゲームの問題、場の問題、そして人の問題です。

1. ゲームデザイナーの想いを見える化する

そのゲームは長考を前提としているのか、あるいはテンポ重視なのか、ここをゲームデザインとして規定していれば、そもそもこの問題は起こりません。
例えばウボンゴでは砂時計が落ちるまで、と明確に決められていますが、多くのボードゲームでこのようなルールはなく、基本的には遊び手にゆだねられています。そのほうが堅苦しくないし、そもそもガチガチにルールで縛られるとそれはそれで、遊びにくかったりします。

そこで、そもそもこのゲームは長考が許されているのか、そうでないのか。作者としてはどうなのかという点を明確にしてはどうでしょうか。

例えばパッケージに「長考OK」マークを付ける。そうすることで、このゲームをやる人は「長考を許容できる人」という暗黙の了解ができるかもしれません。
もしくはゲームデザインとして、「長考」について組み込んでしまうのも一策です。例えば、時間をかければかけた分、一手の質は上がるかもしれないが、その分リスクを負わなければならない仕組みがあるなど。こうすることで、長考しない側も単に待たされ損ではなく、相手がリスクをとっている分、納得できるのではないでしょうか。(分かりやすいのは将棋や囲碁の競技シーンの持ち時間制)

ゲームを作る側として、他人の手番中であるダウンタイムは常に気にするポイントですが、「そもそものターゲットを示しておく」ということがより重視されていくのではないかと思います。これはじっくり考えてやってほしいゲームなのか、それともカジュアルにテンポよくワイワイやってほしいのか。そんな作者の想いを見える化するだけでも、ずいぶんと長考問題が減る気がします。


2. 場の方向性を明確にする

カジュアルなゲームなのに異様に考える時間が長い人がいるから問題なんですけど……と、そんな声が聞こえてきそうです。
ゲーム単位で規定するのが難しければ、場にルールを設けるのが最も手っ取り早く効果的だと思います。

長考問題が起きやすいのはオープンゲーム会だと言いました。首都圏ではありがたいことに非常に多くのオープンゲーム会が開かれています。私も少ないながら色々なゲーム会に参加させていただきますが、ずいぶんとカラーが異なります。
ただ一方で、最低限のルール(勧誘活動禁止、電源ゲーム禁止etc)以外についてはあまり触れられていないと感じています。

「全員が気持ちよく、楽しくプレイをする」というのはどこのゲーム会でも一つの目指すべき姿であると思います。長考する人、しない人が混ざってしまい、これによりストレスが溜まってしまう人が多く出てしまうのであれば、対策を講じるのもありでしょう。

例えば、主催者メッセージとして「このゲーム会はじっくりと1つ1つのゲームを味わう場」とするのか、あるいは「とにかくたくさん色々なゲームを遊んで、気に入ったら自分で買ってもらうお試しの場」とするのかを表明するだけでも効果がありそうです。

ゲーム会のカラーを作っていくのは、間違いなく主催者とそれに賛同する参加者です。
幸い首都圏にはたくさんボードゲーム会がありますので、自分にあったゲーム会に参加されるのが、お互いにとって楽しい時間を過ごせることになるでしょう。

ゲーム会単位のルール決めが難しければ、ゲーム卓単位で、ゲームに慣れたプレイヤーがある程度規定してあげるのも有効だと思います。例えばインスト時に、「これはちょっと考えるゲームだよ」と紹介するとか、「結構運要素が強いテンポゲーだから、サクサクやってみよう」とか。
また、ゲーム前にどの程度ゲームに慣れているプレイヤーなのか、どういうゲームが好きかなど、同卓者のプロファイリングをしておくことはとても重要だと思います。ゲーム会で名札にゲーム歴、ゲーム嗜好などをスタンプで押せるように工夫されているところもあります。とても素晴らしいやり方ですね!


3. 相手の立場になってみる

ボードゲームに時間に関するルールがほとんどないのはなぜでしょう。
ゲーム会に長考に関するルールがないのはなぜでしょう。
結局それは、ゲーム製作者が、ゲーム会主催者がプレイヤーを信頼し、その選択を委ねているからだと私は考えます。ボドゲの楽しさの一つに、対面コミュニケーションを楽しむことが挙げられると思いますが、実は時間とコミュニケーションは相反関係にあると私は考えています。
時間を明確に規定されると、「遊び」が生まれにくいのです。
ですので、競技シーンでない限り、一手10秒などの定量的な時間拘束は本来の楽しさを潰すものであると思います(その時間拘束がゲームシステムに大きく関連する場合を除いて)。

結局、楽しさの源泉は人にあり、なのです。
ボードゲームはソフトで、人がハード。ハードの意識が変わらなければ物事はあまり変わらない。

具体的にどういう意識を持てばいいか。
私自身出来ていないことも多いのですが、結局のところ、「自分の行動が相手にとってどう映っているかを考えてみる」。これに尽きると思います。

最初に申し上げましたとおり、長考されるのが嫌なプレイヤーは、「予測を裏切られた」と感じ、「どれくらい待てばいいのか先が見通せない」ことにフラストレーションを感じます。
そのため、テンポを崩してしまう場合は「すいません、20秒ほど時間ください!」と声掛けするだけで、だいぶ印象は変わってきます。さらに言えるなら「これとそっちで迷ってるんだよなー」とか言うと和らぎますね!

たまにいらっしゃいますし、私も没頭しすぎてやってしまうことがあるのですが、「何も言わずに急に考え出す」、これは最悪です。人はとてもわがままで、自分の知らないところで何かされるのがとても嫌う傾向があります。例えば、電車の中で女子高生2人が仲良く喋っているのは気にならないのですが、1人で携帯片手に喋られるとイライラします。マナーという刷り込みもありますが、情報の非対称性を人は嫌う性質があるのです。

何が言いたいか。一人で考え込む前に、周りをまず見てみましょう。ハードであるプレイヤーがそのボードゲームのほんとのコアなのです。私達が本当に良いゲームだなぁという感想を抱くとき、それはゲームシステムの素晴らしさもさることながら、全員が笑顔でプレイできたことに価値があると、私は思います。

一方、つい長考しがちな人に対しては「どこで悩んでいるの?」と聞いてあげるのも良い配慮です。私もよく悩んでしまうので、聞いていただけてアドバイスをいただけると、いつもありがたい気持ちになります。
特にキングメーカーをしてしまうのが一番嫌なので、最下位なのに考え込んでしまったりすることもありました。そんなとき「別に気にしなくていいから好きにやっていいよ!」と笑顔で言われると、めちゃくちゃうれしいですし、救われます。

長考と一言でいっても、本当に色々なシチュエーションがあります。ゲームに長けた経験者であればあるほど、この人は何に悩んでいるのだろう、と相手について考え、心にゆとりを持ち、手を差し伸べてあげることができるのではないでしょうか。

結局は気持ち次第。もしこれを読んでくれた方がいて、何かひとつでも思い当たることがあれば、少しだけ相手を気にしてあげてください。
私も書いていて、「うわ―自分できてねぇな」と思うことが恥ずかしながらたくさんありました!

【まとめ】

●人は「どれくらい待てばいいか分からない」、「待つと思っていなかった」場合に大きなストレスを感じる傾向にある

●一方、「ゲームに勝つために最善を尽くすのは当たり前」「なんであまり考えてプレイしないのか」と感じる人もいる

●ボドゲに対する考え方は人それぞれだが、そんな様々な人が同卓する可能性があるオープンゲーム会で、長考は特に問題になりやすい

●ゲームデザイナーの想いを示すことで、遊び方が共通化するかもしれない

●そのゲーム会のビジョンを出し、共感する人を集めることで問題が起こりにくくなるだろう

●でも、結局は人。自分が長考するとき、相手が長考しているとき、少しだけ同卓しているプレイヤーについて考えてみよう

【ボードゲーム制作サークルPR】
こたつパーティー(こたパ)
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「あなたの隙間時間を、ちょっとだけ彩るボードゲームトーク」
http://kotatsu-party.sblo.jp/article/104937190.html
posted by らりお at 14:03| Comment(0) | ボードゲームコラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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